カイロプラクティックの歴史

本場アメリカのカイロプラクティックの世界を眺めてみると、その歴史の猥雑さと、技術,理論の多様性、混乱ぶりには驚かされる。そんな中から真に有効な理論と技術体系が見出されると良いのだが・・・

テクニック・システムの起源

カイロプラクティックにおけるテクニック乱造
 テクニック・システムは現在無数に存在しており,その無用な乱造の勢いには衰える兆しがみられない.カイロプラクティック業界におけるこのような分裂は,いまに始まったことではない.業界を分裂に導いた要因は,カイロプラクティック誕生の歴史的・観念的背景がある.
 皮肉なことに,この分裂をもたらした原因の多くは,カイロプラクティックをもっとも強く支持し,最初にテクニックを開発したDDパーマーとその息子BJパーマーに直接結びついている.
 パーマー親子と同時代の人々は,この親子の態度や行動,独自のカイロプラクティック理論に不満を抱いて自らの道を歩み始め,それぞれのテクニック・システムを開発するにいたった.そして,競合するカイロプラクティック大学を独自に設立することさえあった.カイロプラクターの中には,パーマー親子が展開した教えと身体の仕組みに関する彼らの考えにどこまでも忠実で,どのようにであれ,創始者のテクニックを修正したり変えたりしようとする試みに抵抗する者もいた.しかし一方では,パーマー親子とはほとんど何の関連もみられないテクニックも開発されていった.
 基本的に,カイロプラクティックのテクニック・システムは共通のプロセスを経て誕生している.たいてい始まりは何らかの出来事で,臨床の場で偶然観察したことや偶然得た結果がテクニックの確立に結びつく.
 典型的な例が,トムソン・ターミナル・ポイント・テクニックで使われているレッグチェック法の開発者Romer Derifield の話である.伝えられているところによると,Derifieldがオフィスで腹臥位の患者を治療しているとき,電話が鳴った.彼が電話に出ようとそちらへ行くと,患者が頭を持ち上げて鳴っている電話を見た.どうやらDerifieldは,患者が頭を回すとき患者の足の長さが変化するようにみえることに気づいたようだ.やがてその観察が,多くのテクニック・システム(アクティベータ・メソッド,トムソン,ピアースーステイルワゴン)などに欠かせない,デイアフィールド・レツグチェック法の誕生に結びついた.
 Nelsonは「独自のテクニックを生み出す5つのステップ:ネルソン・メソッド(Five steps to your owntechique:Nelson method)」と題した論文で,テクニック・システム開発の過程を皮肉った.その論文で彼は,いかなる臨床家であろうと以下のことをすれば独自のテクニックが開発できると書いている.
 
独自のテクニックを生み出す5つのステップ
(1)「神経」など立派な響きをもった語(他にエネルギー,生理学,量子など)を含んだ名称を選ぶ.
(2)無意味で,仮に理解する人がいたとしたもごく少数である場合は,科学に拠りどころを求める.
(3)臨床家たちに高価な器具を購入させる.
(4)どこかにDDパーマーとBJパーマーの名前を出す.
(5)そして何より,そのテクニックの効果や信頼性を試そうとしない.
Nelsonが言わんとしたのは,テクニック・システムはときに,金儲けだけが目当ての良心を疑わざるをえない輩によってつくられているということで,これはかなり正しい.
 しかし一方で,臨床における観察を体系づけようとして悪いことはない.経験的観察は健康や病気に関する新たな説明の土台となってくれる.テクニックの開発者は臨床の場で観察した同僚と協力し,その観察を体系的にまとめて一連の規則や手順のガイドラインをつくり,観察結果に対応する.そして基礎科学に目を向け,その裏づけをとろうとすることもある.
 ここでしばしば問題が生じる.通常の科学の範疇では合理的な説明が見つからない場合が多く,その穴を埋めるために独自の,そして奇妙な理論さえ構築されていく.しかし残念なことに,この多くはまったく無用である.治療のメカニズムの説明は,その治療法が実際に効くことを臨床の場で立証することほど重要ではない.今日の研究は当然ながらおもに結果を重視している.

接骨師(ボーン・セッター)と磁気治療師

脊椎マニピュレーションは,もっとも古くからもっとも広く行われてきた治療法の1つである.ほとんどの古代文化の芸術品や文献に,徒手による手法が示されている.脊椎マニピュレーションに関する言及は,ヒポクラテスやガレノスの昔までさかのぼることができる.
 何世紀もの間,マニピュレーションは整形外科の医療行為の一部とされてきたが,19世紀,脊椎マニピュレーションを行う民間治療師の最大の集団は「接骨師」として知られていた.おもに徒弟制度で師匠を見て技を身につけた接骨師たちは,19世紀の半ばにアメリカで,当時の医師たちが目を向けなかった医療の穴を埋めようとして注目を集めた.
 南北戦争が終わる頃,医学界は混乱状態にあった.新たな科学的発見が,当時のアロバシー療法(しばしば水銀や鉛等の毒性物質を使ったり,溶血や浄化といった「英雄的」方法を採用したりした)に概して効果がない事実と相まって,一般大衆に医学への借用を失わせた.多くの人々が「非公認」の医者を訪ねるようになった(19世紀にはいわゆる医師を「公認regular」の医者,民間療法の治療師を「非公認irregular」の医者とよぶのがふつうだった).非公認の医者たちの人気は公認の医者の人気をしのぐ勢いで,支持者も収入も民間療法の治療師のほうが多かったことは注目に値する.
 同じ頃,医師たちは神経系を重視し始め,オステオパシーもカイロプラクティックもこの神経系を人間の病気の主患部と見なした.19世紀の半ばには,産婆,歯の治療師,けがや歯の治療も行う理髪師と並んで接骨師のところにも,健康上の問題を抱えた人々が数多く訪れた.学校で医学を学んだ当時の医師に,自分たちが扱うほどのことではないと相手にされなかった人たちだ.たとえば,1867年の『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルBritish Medical Journal』に掲載されたPagetの論文には以下のような記述「『はずれた』関節;これの治療法の1つは捻りの補助で,関節を再び『はめる』とされる荒療治である」があり,サプラクセーションによって生じた痛みを伴う状態を,しばしば接骨師が治療していたことをうかがわせている.
 カイロプラクティックに方法を提供したのは接骨師だったが,理論を提供したのは磁気治療だった.磁気治療の草分けAntor Mesmerは,1780年代後半に病気治療に役立つ(と思われる)磁気の特性を研究した.
 Mesmerは何らかの流体もしくはエネルギーが宇宙を満たしており,それは動物の神経系や磁気に集中していると考えていた.さらに,惑星や恒星が個々の人間の中にある宇宙的なエネルギーの流れに磁気的な影響を及ぼすと考えた.こうして生じたエネルギーの乱れが病気をもたらす.しかし,治療師を育成すれば,手や磁石を用いてこのエネルギーの乱れを正すことができるという.
 そこで生まれたのが磁気治療だった.磁気治療を進めるうち,やがてMesmerは患者を「夢遊」状態,すなわち催眠状態に陥らせるようになった.半ば意識を失った人々は指示に対してことのほか敏感に反応した.このように「催眠術」をかけられた患者たちは,本人に言わせると,磁石や水晶や人間の身体から光が発せられるのを感知することができた.Mesmerはまた,磁気桶(baquet)も使い始めた.これは水を満たし,蓋をした大きな桶で,鉄の棒が何本か突き出している.患者たちは輪になり互いを縛り合った状態で,患部にこの鉄の棒を当てられる.すると,彼らは痙撃を起こしたり嘔吐したり泣いたりし始め,やがて完治を宣言される.
 磁気治療師は滞りないエネルギーの流れが健康を保ち,それが妨げられれば病気になるとした.当初おもに磁気治療師をしていたDDパーマーは,やがてカイロプラクティックとなる治療法開発にあたり,こうした理論を神経系に応用した.彼の言葉を借りれば,「カイロプラクティックは医学や他の治療法から生まれたのではなく,磁気療法が進化したもの」だ.
 初期のカイロプラクティック理論の発展にはラジオニクスの分野も一役買っていた.このアプローチの提唱者は,あらゆる物質は何らかの波長で波動を「放射」しているという説を打ち立てた.とくに,生体の組織はその生命力と健康状態を反映したエネルギーを放出していると考えられた.したがって,この放射を測定できれば,診断を下して治療プランを決定することができるという.
 Albert Abrams MDのような放射探知法を使う臨床家は,患者が放出する電磁波を探知できると主張した.Morganによると,Abramsは患者の脊椎病変部と健常者の頚椎を導線でつないで,この方法の効果を高めようとした.そしてさらに研究を進め,患者が東か西を向いているときに脊椎を打診すると器官内の疾患を見つけることができると主張した.Abramsはどの病気にもそれぞれの特徴をもった波動があると信じ,患者が発する波長を測定するための可変抵抗器を考案した.そしてとうとう「ブラックボックス」として有名なオシロクラスト(Oscilloclast)を開発する.Abramsは,この装置で測定した波動により,患者の病気を診断・治療することができると信じていた.この装置は結局1976年の米国純正食品薬事法(USPureFood,DrugandCosmeticAct)によって使用が禁止された.
 こうした事情をみると,タフネス放射検出器で考えられたメカニズムやそれがたどった運命と,どうしても比べてみたくなるだろう.
 研究者や歴史家の中には,電気を扱う分野の進歩も,カイロプラクティックにおける「神経の流れ」の理論・に影響を与えたとみる者もいる.

DDパーマー:最初のカイロプラククー

 

DDパーマーに関して,接骨師として学んだ経験を示唆する根拠があり,また磁気治療師として仕事をしていたことははっきりと確認されている.パーマーは伝統的な磁気療法の理論を修正して「イネイト・インテリジェンス」の概念を生み出し,身体には先天的な治癒力が備わっているという考えを理論の中心に据えた.彼は,イネイト・インテリジェンスが機能する際の経路となるのは神経系だと主張して,とくに脊髄と神経根を重視した.パーマーは磁気療法の理論を採用し,それを接骨師のサプラクセーションの定義と結びつけた.その結果生まれたのが,不整列な状態の椎骨がイネイト・インテリジェンスの流れに悪影響を及ぼし病気を引き起こす,という健康モデルだった.さらに,DDパーマーは薬物の使用や外科的治療を体に対する不自然な侵襲として排し,最善の健康を取り戻す鍵として神経機能の正常化に焦点を絞った.やがてDDの息子BJパーマーがこのモデルをさらに発展させ,とくに患者の環椎をアジャストすることにより「押し込められていた生命力の流れを解放」できるという考えを提唱した.
 DDパーマーは病気には一般的な原因が3つあり,それは神経系に対する構造的刺激,化学的刺激,精神的刺激(自己暗示)であるとの見解を示した.こうして,パーマーのトーン(緊張)をベースにしたモデルにおける,脊椎サプラクセーションの4つの要素の下地が整った.
 
脊椎サプラクセーションの4つの要素
(1)椎骨がその上下いずれかの分節との関係において正常に整列していない.
(2)その結果椎間孔を閉塞する.
(3)それが対応する神経を圧迫する.
(4)それにより心的インパルスの正常な機能を妨害し遮断する,
19世紀の科学の進歩により,人間の生理機能における神経系の重要性が証明されていたことを考えれば,パーマーが,この一連の変化が健康に害を及ぼすと考えたとしても不思議ではない.
 パーマーは接骨師の伝統と磁気療法の伝統を織り交ぜただけでなく,当時の正統科学と大衆健康運動も統合した.1820年代からすでに,医師たちは病気の原因として「脊髄の刺激」をしばしば話題にしていた(もっとも,彼らが話題にしていたのは今日「うつ」とよばれるものかもしれないが).
 パーマーがやがてカイロプラクティックとなるものに合わせてこの説を修正したので,カイロプラクティックはその発展の礎となる確固たる科学的根拠を得た.また,この時期アメリカではホメオパシーや薬草療法,クリスチャン・サイエンスなど,民間療法のつまり非公認の治療師たちの勢いが全盛を迎えていた.今日でも同じだが,こうした初期の補完代替療法の治療師たちは,従来の医学の限界を指摘すると同時に,自分たちの治療を受ければ実際奇跡的に病気が治せると主張した.つまりカイロプラクティックは,ヘルス・メンテナンスと病気治療に対する代替療法のアプローチと最新医学のアプローチを混ぜ合わせた,独特のケアを提供したのであり,この特性は現代でも顕著に残っている. DDパーマーは神経系に関する考えをさらに深め,神経系には正常なあるいは最適なトーン(緊張)が必要であり,ひいては,このトーンが変化すると病気の原因となる,との説を唱えた.著書『カイロプラクターのアジャスターThe Chiropractor's Adjustor』には,このように書かれている.
 「生命はトーンの現われである.カイロプラクティックの基本理念はこの一文にある.トーンとは正常な度合いの神経の緊張である.トーンはさまざまな器官の正常な弾力性,活動性,強度,感受性による機能に現われ,健康状態の中に観察される.したがって,病気の原因とは,神経の過度の緊張または弛緩といったトーンの変化なのである.」
 DDパーマーの最初の患者はHarvey Lillardという耳の不自由な雑役夫だった.伝えられている話によると,1895年9月18日,Lillardはオフィスの掃除をしながら,DDに聴力を失った経緯を話した.彼はその17年前に,何かを動かそうとして窮屈な姿勢で屈み込んだとき聴力を失った.背中の中央で何かが外れるような感じがして,すぐに耳が聞こえなくなったという.パーマーがLillardの脊椎を調べると,椎骨が正常な位置から逸れて「歪められて」いた.これがLillardの神経機能を妨害しているのだと考えたパーマーは,椎骨を正常な位置に「歪め直す」許可を求めてLillardを説得した.そうしてアジャストメントを施すと,Lillardの聴力は回復した.
 この出来事に関して,いくつかの事実がしばしば誤って伝えられている.たとえば,『アーカイブス・オブ・インターナル・メディスンArchives ofInternalMedicine』に掲載されたある論文は,カイロプラクティックの起源とさまざまな論争について論じており,おおむね正確かつ明確だが,著者のKaptchukとEisenbergは一点だけ誤って,DDがアジャストしたのは本当はLillardの中部胸椎だったのに環椎としている.こうした誤解が生じる理由,そしてこの違いが重要な理由は,以下の議論で明らかになるだろう.
 歴史に関する注釈として重要なことがある.パーマーがカイロプラクティックの創始者といわれるのは,彼が脊椎をアジャストした最初の人物だったからではなく(接骨師が何世紀も前から行っていたのだから,明らかに彼が最初ではない),神経系が人間の健康の基本であると考えた最初の人物だったからでもない(伝統的な磁気療法の理論を修正したのだから,これもまた明らかに違う).パーマーは神経のトーンを正常に戻すことだけを目的に,脊柱をテコとして使う方法で脊柱の分節をアジャストする,と明言した最初の治療師だったのだ.加えて,彼は「変位した骨bone−out−of−place」理論,すなわち後に「分節アプローチ理論 segmental approach theory」と改名され,今日でもある程度の人気を保っている理論の生みの親でもある.
 結果的にこうした業績を残したが,パーマーの磁気治療師からカイロプラクターへの転身はゆっくりとしたものだった.新たに開業したカイロプラクティックの仕事はかなり成功し,1898年,平均的な医者の収入が1,000ドルから1,500ドルだった(Perleの資料による)時代に,DDは9,200ドル以上の収入を得た.Wardwellによると,DDは自らの発見をむしろ隠そうとしたという.
 この成功をもとに,彼は1897年,アイオワ州ダベンポートにカイロプラクティック治療スクール(Chiropractic School of Cure)を設立したが,当初は1人も生徒を受け入れなかった.しかし,瀕死の事故を経験したパーマーは,カイロプラクティックの発見が自分の死とともに消滅するのではないかと心配するようになった.そこで1898年,設立した学校に最初の生徒を5人入学させた.6か月500ドルの教育課程で,とくに脊椎に重きをおきながら,体中の関節のアジャスト法を教えた.Perleは,パーマー・スクールを最初に卒業した12人が,医者かオステオパスだったことは歴史的に興味深いと書いている.生徒は解剖学的なミスアライメントの矯正法に加えて,化学的な不均衡や有害な心理(自己暗示)の是正方法も教えられた.

BJパーマー:カイロプラクティックの開発者

カイロプラクティックの歴史においてDDパーマーと同様に重要なBJパーマーは,カイロプラクタ一になるべく父の指導を受けた.1906年,DDが無免許医療行為の罪で一時拘留されていたため,また学校が財政難に陥っていたため,学校の経営権および所有権は法廷合意のもとに,2,196ドル79セントの金と数十冊の本といくつかの骨格標本に代えてBJに移された.権力を得たBJは学校をパーマー・スクール・オブ・カイロプラクティック(PSC;Palmer School of Chiropractic)と改名した.Gibbonsによると,PSCでのBJの権力は絶大で,同校に出す書簡はすべてBJもしくはPSC宛にしなければならず,他の個人宛にすることはできないほどだったという.
 DDパーマーは失意のもとにアイオワ州を離れ,死ぬまで息子を非難し続けた.彼はやがてオクラホマ州(ここでカイロプラクティック学校を2校設立),オレゴン州ポートランド,カリフォルニア州,そして再びオレゴン州へと旅をした.Keatingが最近の論文で,アメリカ本土西部でカイロプラクティック大学が複雑に発展する過程でDDが果たした役割について書いている.これらの大学は後にウエスタン・ステーツ・カイロプラクティック大学(Western States Chiropractic College)となる.各地を転々としながら,DDはカイロプラクティックの科学を発展させ,ついには椎骨のミスアライメントにより神経が圧迫されるという「足でホースを踏んだ状態 foot on the garden hose」の理論から離れていった.ポートランド滞在中にDDはこう書いている.「どの部位であれ,神経が締めつけられたり押しつぶされたり圧迫されたりするものかどうか,はなはだ疑問である.脊椎でも他の関節でも,骨と骨の間で神経が影響を受けることはありえない」.息子に対する攻撃なのかもしれないが,DDは今度は骨が神経を締めつけるという考えを退けて,生体力学的な変化(サプラクセーション)が神経内の緊張を変化させ(過度に強めたり弱めたり),それにより末端器官に届く神経のメッセージに変化が生じると主張した.彼は神経のはたらきを楽器の弦の振動になぞらえるようになり,こう力説した.「ほとんどすべての病気は,神経に供給される過度の力に起因する.だから発熱するのだ」.
 少なくとも初めのうちは,BJは父親と同じ哲学的モデルを支持していた.著書『カイロプラクティックの科学The Science of Chiropractic』(1906年頃)で彼は,カイロプラクティックとは「病気の原因に関わる科学であり,人体の骨格の300に及ぶ接合部,とくに脊柱の52の接合部における,あらゆるサプラクセーションを手でアジャストする技である.その目的は締めつけられた神経を解放することである.なぜなら,この神経が椎間孔を通して過度にあるいは不十分に伝達ために機能に異常をきたす,すなわち病気になるからである」と書いている.BJがカイロプラクティックの基本は力学的なアジャストであり,「治療学が扱う病理はカイロプラクターが扱う病理ではない」と考えていたことは注目に値する.なお,BJがカイロプラクターは患者の病気を治療するのではなく,患者のサプラクセーションを治療するのだという考えを示したのはこの時期だった.
1910年代の後半には,BJは教え子にアジャストメントを施すのは「主要な」椎骨に限るように指示し,それ以上のアジャストは異常な機能を正そうとするイネイト・インテリジェンスの妨げとなる恐れがあると教えた.彼はまた,カイロプラクターはサプラクセーションが自律神経系に及ぼしうる影響についても考慮する必要があると考えていた.これがやがて,メリック・システムの開発に結びつく.

同業者間の軋轢:業界の分裂

初期のカイロプラクティック業界にみられた分裂の多くは,内輪の争いに端を発していた.一方にはDDパーマーとBJパーマーの対立があり,他方にはパーマー一族とその学校の生徒,卒業生,教職員との対立があった.業界の多くの人々はカイロプラクティックの「源泉」,PSC(PSC;Palmer School of Chiropractic)から生み出される独善的な原理主義に激しい怒りを覚え,大勢の人がカイロプラクティック大学を創設して,PSCに直接対抗した.
 初めの頃から,DDパーマーの学校の最初の卒業生の多くが,DDの教育カリキュラムには,とくに科学的理論の分野に欠陥があると考えていた.そうした卒業生のうちOakley Smith,Solon Langworthy,Minora Paxsonの3人はDDの見解にどうしても満足できず,1903年にアメリカ・カイロプラクティック&自然療法学枚(American School of Chiropractic and Nature Cure)を設立した.面白いことに,カイロプラクティックで「サプラクセーション」という用語を最初に使ったのはLangworthyであり,椎間孔(TVF)の重要性を最初に強調したのも彼だった.MontgomeryとNelsonによれば,TVFにおけるサプラクセーションが「神経の優位性」を侵害するという説を唱えたのもLangworthyだったという.その上,Smith,Langworthy,Paxsonの3人は,カイロプラクティック理論の教本を最初に出版したカイロプラクターだった.これは『近代カイロプラクティックModernized Chiropractic』(1906年)という本で,BJパーマーによる教本の数週間前に刊行された.
 『近代カイロプラクティック』で意義深いのは,著者が歩行分析,運動検査,神経牽引,スタティック・パルペーションとモーション・パルペーション,四肢アジャスト,姿勢分析についても論じている点である.彼らのアプローチがDDやBJのカイロプラクティック・モデルより,本質的に力学的で折衷主義であることは明らかだ.しかしBJパーマーは,同書が自分と同じ世界観を展開していないために,これをカイロプラクティックの教本として認めず,自著『カイロプラクティックの科学』が最初に出版された教本だと主張した.
 業界を支配していたパーマー一族に早くから異を唱えた者の1人にWillard Carverがいる.DDの友人であり患者であり顧問弁護士でもあったCarverは,カイロプラクターとしてパーマーの学校を卒業するや,カイロプラクティック・テクニックに対して構造的アプローチを展開し,脊柱は重さを支え重力に抵抗し,機械工学の法則に基づいてさまざまなストレッサ一に適応する構造になっているとした.こうした適応機序の崩壊がサプラクセーションを,そしてひいては病気を引き起こす,とCarverは理論づけた.カイロプラクティック・テクニックに対するこの構造主義的(すなわち姿勢とその関連領域の観点からの)アプローチは,BJパーマーの厳密な分節理論を大きく拡大させている.CarverがBJから「ミキサー」とそしられたのは,彼がBJ独自のテクニック・システムに対して嫌悪を露わにしたからだろう.そして,その嫌悪感ゆえにCarverはカーヴァ一・カイロプラクティツク大学(Caver Chiropractic College)を設立する.同校では9か月の教育課程を3年に延長し,ヘルス・メンテナンス法の科学的根拠に関する基礎教育に力を注いだ.多くの歴史家の話では,BJが「源泉 Fountain-head」,「カイロプラクティックの開発者(Developer of Chiropractic)」とよばれるのに対し,Carverは自らを「科学の人 Science Head」,「カイロプラクティックの構築者 Constructor of Chiropractic」と称していたという.
 1906年,新たな卒業生John Howardが解剖の授業に人間の死体を取り入れようとしないパーマーに不満を抱き,カリキュラムに人体解剖の授業を増やし,その内容を充実させるように提言した.彼はまた,BJパーマーの「スペシフィックで,純粋で混じり気のない(Specific,Pure and Unadulterated)」カイロプラクティックという発想にも反対した.「BJは固執しすぎている」とHawardは言った.「彼はすべての病気が脊椎のサプラクセーションに起因しており,脊椎のアジャストメントにより,あらゆる病気を撲滅できると主張した.そして,他のどの治療法も認めようとせず,どこまでも独自の見解に固執した」.
 BJの態度や行動に我慢できなかったHowardは,自分でナショナル・カイロプラクティック大学(National College of Chiropractic)を開校し,今日ふり返るに,カイロプラクティック教育における教授法を大きく改善した.同校はやがて,1910年にHowardが医師William Schulzeと提携すると,より医学志向になっていった.同校では解剖学を重視するとともに,理学療法やその他の補助的テクニック(水治療法,筋テクニック,マッサージ,内服・外用治療薬の使用を含む)のトレーニングを導入した.HowardとBJパーマーの間で果てしなく繰り広げられる激しい「ミキサ一対ストレート」論争の中核をなすのは,この「生理学的治療法」使用の是非で,HowardはBJの辛辣な批判の的となった.
 パーマー大学で絶対的権力を誇るBJに反対する者は他にもいた.哲学の主任Joy Lobanは,1910年代初頭にBJが行ったX線の導入に反対を表明していた.しかし,その頃にはBJは,どの治療機関にも引けをとらない,最初にして当時最高の]線撮影機を備えた検査室をすでに設けていた.Lobanは,]線の使用は「手のみ」による治療を信条とすべきカイロプラクティックの,まさに基本原則に反すると考えた.BJとの見解の相違に折り合いをつけることができなかったLobanは,哲学の授業中生徒の前で扇動的な演説に熱弁を振るい,その後50人の生徒とともに大学を去った.そして,同じアイオワ州ダベンポートに,ユニバーサル・カイロプラクティック大学(Universal College of Chiropractic)を設立した.
 DDパーマーも神経に加わる圧力は「熱量増加」の原因となると考えていたが,熱量を測るための道具は,1924年にDossa Evinsが開発するまで存在しなかった.Evinsが自分で開発した温度測定装置ニューロ・カロメーター(NCM)をパーマー大学へ持ち込むと,同校では治療前にあった神経の圧力が治療後に取り除かれていることを示すため,アジャストメントの前後にそれを使うようになった.以来,BJパーマーはこの装置がすっかり気に入ってしまい,この装置なくして,真のカイロプラクティック治療はありえないという結論を出した.1924年の文化祭(実質的にはPSCの同窓会)に際して,BJは自らの発言がカイロプラクティック業界にたいへんな波紋を呼ぶことを世に知らしめた.「その時が来た」の演説で,その時点まではいかなる器具にも不用意に手を出さないよう警告し続けていたパーマーが,カイロプラクターは神経伝達妨害の場所を特定するために,今後はNCMを使わなければならないと発表したのだ.BJの言葉を借りれば,「いかなるカイロプラクターもNCMなくして施術はできない……また,いかなるカイロプラクターも,NCMなくして効果的で適切な,あるいは本物の治療は提供できない」(Perleによる文献より).
 根っからの企業家であるBJは,カイロプラクターは今後NCMを使用せねばならず,使用しない者は実質的に業界から締め出すべきだと主張した.これは業界の反感を買った.というのは,BJはニューロ・カロメーターの特許権をもっており,これを使わせることで莫大な利益をあげたからだ.温度測定はその後も多くの臨床家の関心を集めたが,BJパーマーは急激に権威を失墜し,20年にわたり業界に及ぼしてきた影響力を大きく失った.NCMは完全に買い取ることはできない仕組みで,3,500ドルのものが1か月5ドルで貸し出された.PSCの主要な教員の多くが,狭量な独善主義を商魂に結びつけたBJに幻滅した.おまけに,Gibbonsによると,NCMの研究は彼らにも秘密にされていたという(Keatingはその可能性は低いとみているが).
 大勢の教員が辞職し,そのうち有名なJames N Firth,Harry E Vedder,Stephen J Burich,Arthur C Hendricksの4人(ザ・ビッグ・フォー)が,リンカーン・カイロプラクティック大学(Lincoln Chiropractic College)を創設した.この新しい大学はアジャスト・テクニックの多様性を基盤に,DDパーマーの伝統的理念寄りの哲学を展開した.この哲学では,神経伝達妨害やイネイト・インテリジェンスの妨害は,サプラクセーションが発見される体内のいかなる場所にも生じうる.ザ・ビッグ・フォーはBJの業界独裁を避けようと,「プロトタイプ・デイバーシフアイド」ともよべるテクニックを開発した.
 BJの考えにもう1つの大きな変化がみられたのは,1920年代終盤にパーマー大学に広まった上部頚椎構想を考え出したときだった.彼は分節主義の立場を離れて上部頚椎のみに注目し,環椎のサプラクセーションがすべての病気を引き起こすと考えるようになった.BJは最初軸椎を重視したようだが,ともあれ1930年春,上部頚椎のサプラクセーションがもっとも重要であるという考えを発表した.このときには脳とその他の部分をつなぐ神経の機能が妨害される場所は,上部頚椎のみであると考えるようになっていた.BJの言葉を借りれば,
 「これまでカイロプラクターが軸椎より下の脊椎分節をアジャストしたことはなく,今後も一切ない/・・・・・仮にカイロプラクターが環椎より下のサプラクセーションをアジャストしたことがあったとしても,それによって病気が治った患者はいない……脊柱の他の部位,すなわち下部頚椎,胸椎,腰椎のどの椎間孔でも,閉塞,圧迫,妨害を伴うミスアライメントが生じることはありえない.」
 このモデルに基づいて,BJはこう明言した.「カイロプラクティックの哲学,科学,術におけるすべてが上から下へ,内から外へと機能する.この範噂にないものは何であろうと,好むと好まざるとにかかわらず,すべて医学である」(Wardwellによる文献より).彼は,環椎または軸椎のサプラクセーションにより上位の脳に力が溜まり,下位の身体で力が不足し,あるいはその両方が起き,その結果,病気が生じるという説を唱えた.日く「脳はエネルギーが詰まった状態に,身体はエネルギーがなくなった状態になる」のだ.
 これまで,いついかなるときもBJに従ってきたカイロプラクターでも,「いままでにアジャストメントで良くなることがあったのは,どの場合も偶然だったのだ」と言うBJに,全員が同じように熱心に耳を傾けたわけでなない.ターグル・リコイル・アジャスト・アプローチは,もとは脊柱全体のアジャストメントに使われていたが,BJ自身がこれを環椎アジャスト用に改良した.臨床家はすばやくスラストしてすばやく手を離す.理論的には,これによりリコイル効果が生まれる.パーマーは,この手法によればいかなる神経伝達妨害も取り除くことができ,身体のイネイト・インテリジェンスを活性化させて,脊椎分節を解剖学上適正な位置に戻すことができるものと信じていた.(カイロプラクティックに関する論文の中に,KaptchukとEisenbergの論文のように,DDはLillardの中部胸椎ではなく環椎をアジャストしたと誤って書いたものがある理由が,これでわかるだろう).
 歴史家の間には,BJパーマーが突然人間の健康における環椎の重要性と上部頚椎のアジャストメントに焦点を絞るようになったのは,パーマー大学の教員AA Wernsingとの会話がきっかけだったとするみかたがある.なかにはさらに踏み込んで,上部頚椎理論はBJが考えたのではなく,すべてWernsingの考えだった,と言いだす者もいる.
 上部頚椎理論を採用し実践する際,BJは結局カイロプラクティック誕生のきっかけとなった出来事について,つまり40年前,DDがLillardの環椎ではなく第4胸椎をアジャストしたとき,Lillardの聴力が回復した理由については何も説明しなかった.アジャストしたのは胸椎ではなく環椎だったのだろうと,簡単に片づけてしまった.Stowellによると,すべての病気は環椎のサプラクセーションに起因するという理論にどこまでも固執したために,BJはPSCのカリキュラムから「この前提に合わない学習や知識,探究,科学的研究をすべて」排除してしまった.

ま と め

 カイロプラクティック誕生後最初の10年に始まり今日にいたるまで続いている,テクニック分裂の経緯について述べた.分裂には辛辣な批判がつきものだが,手本を示してすべての基礎を築いたパーマー一族内部にもそんな分裂がみられた.このように述べるとネガティブな印象を与えるが,悪いことばかりではない.その後繰り広げられたテクニック闘争の結果,テクニック・システムのまさに鏑を削る競い合いが真の技術革新に結びつき,安閑とした協調関係からは,まず生まれないタイプのテクニックが誕生したのだ.
 皮肉なことに,厳密に定義されしばしば狂信的信奉を受けていたその時代の無数のテクニック・システムに対抗し,取捨選択による技術の解放をめざして生まれた方法論デイバーシフアイド・テクニックは,時の流れとともに,他のシステムに代わるというよりそれと並んで,時に応じて構成されるもの以上の存在となり,新たなテクニック・システムとなった.しかし,逆説的にいえば,現代のデイバーシフアイド・テクニックは他のテクニック・システムと区別しにくいところが,他のどれとも異なる点なのである.

  
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